いくちゃんと8歳の海

< あ か る さ を み う し な っ た ら 夜 >





どこかで思い出がひとつ生まれると、誰かがひとつ思い出を忘れてしまう。


季節という名前の人には出会ったことがない。


海岸線はずうっと昔から何度もなぞられていて、


海辺をたどれば家に帰れる。





育子は、ふうっと吐いた息が、風よりもあたたかくなったことを感じている。


季節がふいに、どこかにいくのではなくて、


音や空気の届き方が変わってしまう日に、人は少しずつ、「そちら側」から目を逸らしていく。


「夏の方角」から。




育子は海を見ながら、タクトをふるように人差し指を立てて、地面と空の間をゆっくりと滑らせた。


スケッチをしているのだ。海のスケッチを。


呼吸にあわせて、青白い水面をなぞる。


なぞるけれども、海はすぐに形をかえていく。




そうして彼女は、「そこにはもうない」ものの残像を、いっときだけ視線にとどめることで、自分がうつろわないことを確かめているようだった。



この場所から。あるいは、自分自身から。






少し歩く。


歩幅をできるだけ大きくする。


濡れた砂浜が靴型に沈む。




そうやって刻む距離がだんだんと広くなっていて、いつか当たり前に過ぎ去る季節みたいに、自分の立っていたところが、点々ととぎれていくんじゃないだろうか。


育子はそのことがさみしいというよりは、すごく怖いと思った。




いつか世の中から「はじめてちゃん」がなくなってしまって、心ぼそく佇んでいる、遠くの灯台みたいな方角を眺める自分が在るかもしれない。


怖いと思った。「はじめてちゃん」を、忘れることが。



絵空葉書を書くのは得意だったけれど、そんな自分には、なにを話しかけたらいいか、わからない。





< な に も い う こ と が な く な れ ば 朝 >




声を出す。


歌と音との、境目みたいな声を出す。



岸辺に打ち捨てられた窓枠がある。
抱えおこして、両手で支える。
窓の向こう側の海を、ぼんやりと眺める。



潮が満ちる。
足元まで波がよせる。



振り返ると、歩いてきた砂浜に、沢山の靴型の海が残っている。



(君たちのなかに。虎の子が眠っているよ)




小さな妄想に笑う。



忘れてもいいのかもしれない。
そしたらまた、あたらしい靴のあとを残して。
声に出して。
歌えば。








目をつぶる。



小さなスピーカーのように歌う。



窓から踏み出す。



強い突風。



はじめて歩く。



今までとは別のところへ。



目をひらいて。



どこかへ。



いつか。



灰が降るように着地をする。



灰が降るように。



もう、怖くはない。