いくちゃんとサヨナラの匂い




さて、再び東京です。 

 
出発のとき、育子はウワンウワン泣いて大変でした。 

 
「なんでーーーよ。帰らん! 
いくこがナバ、採りにいかんばとやもん!」 

そう叫びながら縁側の柱にしがみついて、動こうとしない。
 
飛行機の時間が迫る。
困った顔のひいちゃん。 
さみしくもうれしくもあり、複雑な心境だろう。

最後には汐が無理やりひっぺがして、育子と片付かない荷物もいちごトラベルバッグに放り込んで出発。


別ればっかりは、なかなかね。

 
 


子どもの距離感や時間の感覚は、大人のそれとは違う。 

私も転校が多かったから、それはよく分かる。 

またお正月に来れるからさー、などと、
大人の時間ものさしで喋ってもしょうがないからなかなかに難しい。

  

振り切れんばかりの泣き声と共に帰る育子をちょっと羨ましくも思う。
 
大人だってウワンウワン泣いてもいい。

だけどそういう、子どもが別れに感じる断絶は、大人になってほとんど経験していない。
たとえ親しい人や、愛しい人と、死に別れたとしても。

ものすごく哀しい、という気持ちにはなる。
だけどそれがあの、子どもの頃に感じた圧倒的な断絶とは、どうも違うように思えるのだ。
  


それは心が冷たくなっているわけではなくて、私たちの身体を流れる時間や距離の分量が以前よりも多くなっていて、
彼岸に向かう彼や彼女の存在もまた、遠くに行ったようでいて、やっぱり何処かで近くに在るように感じるためではないだろうか。

心の中に生きている、というよりそれらは、膨張した私の中で、総体として遠ざかることができないだけなのかもしれない。 
ふくらんだ宇宙が抱える、私たち自身の存在のように。
だから私にはもう、育子が感じるようなサヨナラは、たぶん見えない。 
 
 

 
 
上空で安定した飛行機の中、育子は黙って絵を描いていた。  
 



白い空間のしたに伸びる、一本の線。
 
その下に広がる青い海。

手をとる二人の影。 
 

たぶんそこには、セブンスターの匂いも。
 
私にはもう、見えないけれど。