いくちゃんと短いおはなし その2
真っ白のもやもや。
この村の朝には、いつでも白いもやがかかっている。
レースのカーテンを突っ切るように、柔らかくもやをかき分けながら、ひいちゃんは歩いていました。
「ひいちゃん、待って」
いくちゃんは眠たい目をこすりながら背中を追いかけます。
カラカラという雪駄とずりずりというサンダルの音が、つかず離れずの距離を、せかせかと通り過ぎてゆきます。
「いくちゃん、急がなくちゃ。
だってこのもやが晴れてしまったら、間に合わなくなってしまうよ」
二人は、あるものを見るために、ふつうの静けさよりも静かなこの村の早朝に、たった二人きりで出かけているのです。
「うん、みる。
ひかりのせん」
「ひかりのせん」とは村の言い伝えで、もう100ねん以上も前からの噂ばなし。
太陽から降り注ぐ光は、ただこの地球を照らしているのではなくて、やがて夜が来て、宇宙に星がばら撒かれる時間がくるまで、いちばん青くて深い海を寝床にして待っている。そこでひかりは、とっても細い、一本の線になって、見たこともないような輝きを篭めて眠っているというのです。
それはつまり、昼は夜のために待っていて、夜は昼のために待っている。
そんな何でもない単純な関係が、私たち人間以外のセカイにもある、ということです。
「でもね、ひいちゃん。
いくちゃん白いもやもやの時間に起きたこともないし、
お父さんだって、そんなものは見たことがない、ってゆってたよ」
「大丈夫だよいくちゃん。
ぼく、ずっと前だけど、一度だけ見たことがある。
兄ちゃんと喧嘩して家を飛び出したとき。
海のそばで寝ちゃったんだ。
そしたら白いもやと海のあいだで、全部の星が眠ってた。
かわいいカシオペイアはもちろん、夜更かしのアルフェッカだって」
「ほんとう?びゅんびゅん走ってる、ペルセウスたちも?」
「そう。ペルセウスたちもそうさ。みんなで一緒になって、 夏のばか騒ぎをやめて眠ってたんだよ」
もやのカーテンはずっとずっと先まで続いていました。
二人の足元だけがようやく確かなくらいで、サンダルが踏み歩く道路の感触だけが、いつもの村の手がかりでした。
目の前は真っ白なまんまでしたが、しばらくすると、低いところから流れてくる冷たい空気が、二人の身体をさわりました。
どうやら海に着いたようです。
妙なことに、潮騒はまだまだ遠いところにあるみたいによく聞き取れなくて、いくちゃんは間違えたのかなぁ、と思いましたが、砂地の感触だけは本当で、ますます不思議な気持ちになるのでした。
「音が遠くにあるのはどうしてかな?
自分の声はちゃんと聞こえるのに。
・・・
ひいちゃん、聞こえてる?
・・・
おーい、ひいちゃん」
「何だい?ごめん、ちょっとだけぼく、耳が遠いからさ。
目だってあんまりよかない。
だけど、遠くのものは、どういうわけかよく見えるんだ。
だから、もうずっと『ひかりのせん』なんて見てないけれど、今日は何だか見られる気がする」
「どこにいる、」
いくちゃんが手探りしてひいちゃんのシャツを掴もうとした瞬間でした。
ゴウゴウ!という、びっくりするくらい大きな音がやってきました。
まるでそれまで聞こえなかった音が、まとめてやってきたような、ドキドキする音でした。
びっくりして二人は、続いていた白いもやの先に振り向きました。
ゴウゴウとした音が、わずかにもやを持ち上げたような響きをしました。
そしてそのゴウゴウの音の下には、日本晴れの空と見まがうように、すっきりと一つになった海が見えます。波の毛ひとつもそこにはありません。
それから白と青が、ぷっつりと分かれて、その間にわずかな、本当にわずかな粒粒が降りてきて・・・
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「やっぱり見えた」
「いくこだって、見えたよ」
「また見えないかな」
「どうかな。ぼくはもう、見えないかもしれない」
「いくこはもっかい、見る。きっと見える」
「あぁ、きみならもっかい見えるさ。
でも、良かった。
おんなじだった。
家出したあのときと、おんなじ。
80年前と、おんなじ。
さぁ、帰ろう。お父さんが心配するからね」
しわしわの雪駄とつるつるのサンダルは、帰り道ではゆっくりと寄り添って、何の変哲もなくなった田舎道を歩きます。
いくちゃんが85歳になるころ、ひいちゃんは165歳です。
その時間が二人には見えないとしても、きっと「できごと」はやっぱりそこにやってきて、同じように誰かに語りかけるのでしょう。
今日も昼は夜を待ち、また夜は昼を待つでしょう。
そして単純な星の輝きは明日もきっと、つかず離れずの距離で私たちと遊んでくれることでしょう。