いくちゃんとお手つきのピノ
家から川が見える。
川のそばには、大きな並木道がある。
秋の葉っぱを眺めていると、記憶の検索がはじまる。
けれどもその速度は思ったよりもゆっくりで、
あんなこともあったっけ、あれはどこの何だったか・・と毎ペースだ。
連続して見えるものが実は不連続で、
不連続であると思っていたものが、実はずっと続いているのではないか、と思うことがよくある。
数分前に笑った娘の声。
半年前の晩ごはん。
どこからどこまでがつながっているのか、あるいは、つながらないままなのに、つながっていると想像しながら日々を暮らしていくのか。
今、育子はソファでピノを食べながらご機嫌だ。
数分後の育子も相変わらずケタケタ笑いながらそこにいるだろうか。
たぶんいるだろう、と思ってしまう。
私はそう思いながら日々を過ごしたい、と思っているからだ。
だけど物事は見た目では分からないけれど、時にバラバラになる。
立ち止まっている出来事の重さや、遠ざかっていくひと時の速さは、ほんとはいつでもバラバラになることができるのに、
私たちがそれを許さない、許していないだけではないだろうか。
「葉っぱがカサカサになる前にね、いくこ、あの木にのぼったんだよ。ほんとよー。
それで持ってたお兄ちゃんのピノ食べちゃったからさ、
『育子、それはお手つきだ』って、お兄ちゃんにゲンコされて泣いたんだー」
バラバラになった、と口ではいいながら、通り過ぎていくふりをして実は、
わたしたちは曖昧な「お手つき」をしながらまた同じ場所でぼーっとする。
もう一箱にそろーりと手を伸ばす育子。
私はわざと「こらっ!!!」と大声で拳を天井に向かって振り上げる。
「わああ!」とあたまを覆ってしゃがみこむ育子。
握ったグーを私はパッとパーにかえて、ゆっくりと落下傘のようにおろして育子の頭に着陸させた。
それから息子の声色をまねる。
「育子、それはお手つきだ」
もう数分前とは違う表情だったけれど、やはり娘は笑った。